「おいおい、しけた面してるんじゃねえよ。魚河岸で『時化(しけ)』だなんて、縁起でもねえやな」
ちはるは「はい」と返事をしたが、その声がまた辛気くさい。
「ったく、しょうがねえなぁ」
利々蔵は立ち上がった。
「で、おめえの言う『新しい鰹料理』ってのは、いったいどんなんだ? なかなか思い浮かばねえと言ったって、ちょっとは考えたんだろうがよ」
ちはるも立ち上がった。
「何かと組み合わせたらいいんじゃないかと思ったんですけど、その何かが思い浮かばないんです」
利々蔵は首をかしげた。
「おめえの言ってる組み合わせってのは、薬味のことかい?」
「もちろん薬味でもいいんですけど――葱、生姜、にんにくは、もうやりました。辛子で食べるのも、もちろん美味しいんですけど――でも、それだけじゃありきたりだと思って――」
利々蔵は胸の内で唸った。
こいつも、まったく同じことを考えていやがる――。
「魚の持ち味をもっと引き出す方法はないか、探してみたいと思うんです」
ちはるは、ぐっと利々蔵の顔を覗き込んできた。先ほどまでの弱々しさはすっかり消え失せ、ちはるの目には強い力が宿っている。
「朝日屋には、いろんなお客さんが来ます。京や大坂から来る人、信州や甲州から来る人――旅をしてきたみなさんは、故郷を懐かしみながらも、故郷とは違うものを求めていらっしゃいます。旅の醍醐味は、やっぱり日常との違いを楽しむことですから。その旅の中で、あたしは朝日屋の料理も楽しんでもらいたいんです」
ちはるは自分に言い聞かせるように続ける。
「こんな美味い料理があったのかという驚きを感じてもらえれば、きっとお国に帰っても、朝日屋を思い出してもらえます。朝日屋で食べたあれが美味しかった、これが美味しかったと、うちの料理がいつまでもお客さんの胸の中に在り続けられたら、それはすごいことだと思いませんか」
ちはるは目を輝かせて、空を仰いだ。
「あれこれ試して、失敗するかもしれない。でも、挑むことをやめちゃいけないと思うんです。先人たちだってきっと、あがきながら前へ進んで、いろんな料理を生み出してきたんでしょう? あたしも、できることは何でもしないと――お客さんのために――」
利々蔵は目を細めた。
いい面構えじゃねえか――。
利々蔵の目利き魂も燃え上がる。
目利きとは、上物を見極めることだけを指す言葉ではない。客が何を求めているのか見極め、差し出せる力を持つ者が、真の目利きなのだ。
利々蔵は改めて真正面から、ちはるを見つめた。
男だとか女だとか、そんなのは関係ねえ。こいつは立派に、朝日屋の料理人だ。いつか番付に載るような料理を作り出すかもしれねえ――。
江戸一番の目利きを目指す自分も負けてはいられぬと、利々蔵は気を引きしめた。
魚の売り手として、ちはるが求める答えをともに考えたい。
もし、おれがちはるならどうする。各地から訪れる旅人たちのために、朝日屋ならではの一品を出すなら――。
お題は鰹だ。
もし自分が朝日屋に泊まる客なら、いったいどんなふうに食べたいかとも考えてみる。例えば、遠国から何日もかけて東海道をやってきて、日本橋に辿り着いたとする。疲れた。水が飲みたい。腹も減った。早く、どこかで休みたい。湯屋で汚れを落として人心地ついたら、絶対に、きゅーっと酒を一杯やる。
「やっぱり、酒の肴に欲しくなるのは刺身かな。この時季なら、何と言っても鰹……辛子や生姜以外でとなると……」
ふと、恋女房さくらの言葉が頭によみがえる。
――生姜は血の巡りをよくするから、甘酒の中にしぼり汁を垂らして飲むでしょう。夏を乗り切るためには欠かせないわ。このところ暑くなってきたから、うちの店でも甘酒がよく売れるようになってねえ――。
茶屋に勤めているさくらは毎日大勢の客と接して、さまざまな出来事を見聞きしている。
――昔はよく冬に甘酒売りが来ていたって、駿河屋のご隠居がおっしゃってたわ。だけど明和(一七六四~七二年)を過ぎたら、いつの間にか一年中売り歩くようになって、今ではすっかり夏の風物詩だって――。
死んだ祖父さんも、昔同じようなことを語っていたと思い出す。
「今は甘酒も夏が旬か……」
利々蔵の呟きに、ちはるが目を見開いた。
「甘酒――鰹と甘酒の組み合わせはどうでしょう!?」
利々蔵は仰天する。
「おい、まさか鰹に甘酒ぶっかけて、客に食わせようってんじゃねえだろうな!?」
ちはるは真剣な表情でうなずいた。
「漬けるんです。三枚に下ろして、皮を引き、食べやすい大きさに切って――塩を馴染ませて余分な水気を取ってから、甘酒に漬けたほうがいいですね。どれくらい漬けておくかは、いろいろ試してみないとわかりませんが――おそらく四半時(約三〇分)も漬けておく必要はないと思います」
利々蔵の口の中に、甘酒と鰹の味が、勢いよく渦巻く波のようによみがえってきた。思わず舌を動かして、口の中を舐め回す。
「麹を使った浅漬けのような感じになるのか……?」
ちはるも鰹と甘酒の味を思い返しているかのように、唇を引き結んで小さく口を動かした。
「麹とご飯と塩を混ぜた物に魚や青物を漬ける『甘漬け』もありますから、甘酒もいけるんじゃないかと思います。甘酒も、もち米と米麹を使いますから」
小さく何度もうなずいて、ちはるは独りごちた。
「薬味はやっぱり必要ね。葱か生姜――みょうがや紫蘇でもいいか――煎り酒を添えてもいいかもしれない――山かけもいいな――」
利々蔵は舌先に気を集めながら、さらに味を思い浮かべた。
「血合いを少し残してもいいかもしれねえぞ」
ちはるが、ぎょっとした顔になる。
「血合いを入れたら、生ぐさくなりませんか!?」
利々蔵は、かぶりを振った。
「獲れたての鰹を食ったことのないやつが、目を閉じて新鮮な刺身を食べると、鰹と気づかねえ場合がある」
「まさか、そんなことが――」
「あるのさ」
利々蔵は口角を引き上げる。
「江戸っ子は、さっぱりした味わいの魚を好む。鰻なんかは、こってりした蒲焼を食ったりするくせによ。鰹はやっぱり、すっきりした風味の初鰹が最高だと言うやつが多いんだ――が、実はその陰で、味の濃い秋の鰹を好むもんもいるんだぜ。そんなやつらには、初鰹の血合いを入れてやったほうが好まれるんじゃねえのかい。血合いは、鰹の風味そのものだからな」
ちはるは納得したような表情になる。
「さっぱりとした味わいを好むもんに対しても、血合いまで食べられる新鮮な鰹ってえのは、売り文句になるんじゃねえのかい。朝日屋の地の利を活かせるぜ」
ちはるは、はっと息を呑んだ。
朝日屋は、この魚河岸からほんの五町(約五五〇メートル)ほどの場所にあるのだ。
「足の早え鰹の血合いを出せる店なんざ、そうそうねえぜ。海から離れた場所に住んでいるもんは、驚くんじゃねえのか?」
ちはるは大きくうなずいた。
「甘酒を使えば、口当たりも変わりそうです。鰹の旨みを、さらに引き出せるかもしれませんね」
利々蔵の唇がゆっくりと弧を描く。
面白れぇ――。
わくわくして、武者震いしそうだ。
「新しい鰹料理ができ上がったら、おれにもぜひ食わせてくんな。おめえの料理を食うことは、おれの修行にもなる」
「はい! 利々蔵さんに負けないよう、あたしも修行に励みます!」
ちはるは踊るような足取りで帰っていった。
そして間もなく、恵比寿屋の魚も売り切れる。